012.チョコレート










「あ、チョコレート」
「………」
「アバッキオ、チョコレート」
「………」
「チョコレート」
「食べてーなら食べてーって言え」
「私が食べたい訳じゃなくて」
「はァ?」
「いいから、待ってて」

甘い香りがして、が足を止める。アバッキオは構わずに進もうとしたが、の声がどんどん離れるので渋々足を止めた。
待ってて、と言ったは振り返った時にはもういなかった。代わりにすぐそばの店のドアベルがちりちりと音を立てている。
「チョコレートの専門店」と可愛らしい字で書かれた看板が下げられた店。外から店内の様子が見えるようになっていて、ショーケースには様々な形のチョコレートが並び、店主の女性とが笑いながら会話をしていた。
ああしてが普通の年頃の女のように振る舞っているのを見ると、時々たまらなく不安になる。自分という存在は、がこれから生きていく上で彼女の人生に影を落とすだけなのではないか。今すぐに彼女の前から姿を消すべきではないのか。そんな事ばかり考えてしまう。
街灯にもたれかかり、アバッキオは空を見上げた。夕暮れに染まる空にちぎれた雲が一つ浮いている。あんな風に生きていたはずなのに、どうしてこうなってしまったのだろう。いつの間にか地に足がついて離れない。もう二度と、離れたくないとさえ思う。だからこそ人を避けていたはずなのに。
今の生活に満足していないわけではない。幸せすぎるのだ。一瞬一瞬が幸せすぎて、いつか失うかもしれないと思うと不安になる。「いつ死んだっていい」なんて、言えなくなってしまう。

「お待たせ!」

にこにこしながら出てきた。手にはチョコレート色の箱を持っている。蓋を開けると甘い香りが広がった。

「アバッキオ、はい」
「あ?」

一粒掴んでこちらに差し出す意図がわからなくて疑問符を返すと、開いた口にチョコレートが放り込まれた。
甘い。いや、当たり前なのだが。市販のヌガーのような不快な甘ったるさではなく、上品な、ほんのりと苦味を残す甘み。

「…どう?」
「どうって…あめーよ」
「そりゃそうでしょ、チョコレートだし」
「まぁ、そうだな」
「もう一つ食べる?」
「おまえは食わねーのか」
「アバッキオが食べてるところが見たかったんだよ」

また、こういうわけのわからないことを言う。この女は。
こいつは、オレが幸せなら自分も幸せだと言う。そんなバカみたいなことを真面目に言うようなやつなのだ。きっとこれもその一端なのだろう。
頬が熱くなるのを感じた。不快なわけでもないのに無意識に舌打ちをする。
そういうことをするから、手を離せなくなるんだ。クソ野郎。
もう一度こちらに差し出されたチョコレートは指の温かさで少し溶けていた。指を掴んで、それごと口に入れてやる。顔を赤くするを無視して、指についたチョコレートを舐めとってやった。仕返しだ。店主がこちらを見てにこにこしているのに気が付いたが、見ていないふりをした。

「お二人さん、お熱いねぇ〜」
「見せつけてんのかよォーッ!」

ヒューッ、と冷やかす声が聞こえて振り返る。ミスタとナランチャがニヤニヤしながらこちらに歩み寄ってきた。
よりにもよって一番見られたくない奴らに見られた。アバッキオはまた舌打ちをしたが、は呑気に手を振っている。

「つーかもこんな無愛想なヤツのどこがイイってんだよォ〜、今ならまだオレに乗り換えれるぜ?」
「ミスタそれ、誰にでも言ってんでしょ」
「オイオイ、そんなワケねーだろ?」
「いいなー、チョコレート!オレにもくれよォ」
「うるせー!てめーらさっさと失せやがれ!」
「チョコレートくれよォ〜」
「誰がやるかッ!」
に言ってんだよオレはッ!」
「いいじゃん一つくらい」
「ホラァ〜〜〜〜〜ッ!はいいって言ってんだからくれよッ!」
「うるせー、自分で買えッ!」

からチョコレートの箱をむしりとり、アバッキオは足早に行ってしまった。はごめんねと笑いながらその後を追う。
あいつらには一粒たりともやるのものか。こんな風に思ってしまう自分はもう末期だ。こんなはずじゃあなかったのに。
けれど許されるなら。もう少し、もう少しの間だけ。
この優しい味を、独り占めさせていてほしい。