「ただいま」

ドアを開けながら中にいるはずの男に声をかける。返事はない。
また原稿とにらめっこか、と思って部屋の主を探す。机の上の周りには丸められた原稿が散乱していた。お目当ての人物はいない。
溜息を一つ吐いてからそれらを拾い上げゴミ箱へ突っ込む。それなりに片付く頃にはあの男が書いた言葉で溢れかえっていた。
手についたインクを落としてコーヒーを淹れる。砂糖が見当たらないのでブラックで。安っぽいインスタントコーヒーを啜りながらふと、寝室のドアが開いていることに気が付いた。
そっと中を覗き込む。枕の上に見覚えのある白っぽい髪。枕元で眼鏡が添い寝している。

「ロアルド」

狭いベッドで丸くなって眠る男。名前を呼んでみる。返ってくるのは規則正しい呼吸音だけ。
近寄って顔を寄せる。酒の匂いはしない。酔いつぶれて寝ているわけではないようだ。大方、原稿に行き詰っての不貞寝だろう。
飲みかけのコーヒーをチェストの上に置き、顔の前に投げ出された手持無沙汰な右手に触れる。指を絡めれば骨ばった人差し指がぴくりと動いた。

「ロアルド」

起きたかと思って声をかけてみれば、眉間に少し皺を寄せて呻く。

「寝てるの?」
「……ん…」
「起きてるの?」
「………」

寝かせておいてやろう。そう思って重ねた手を離した。また、人差し指がぴくりと動く。
この男を真似てソファーで昼寝なんてのも悪くない。生温くなったコーヒーを飲み干してドアノブに手をかけた。

「…

名前を呼ばれて足を止める。振り返ってみてもロアルドは枕に頭を預けたまま。

「なに?」

寝言に返事をしてはいけないと聞いたことはあった。けれども嬉しくて、つい答える。

「……愛してる」

思いもよらない返答。もう一度近寄って寝顔を覗きこむ。目は閉じられたまま。
ああ、くそ。動揺してしまった自分が悔しい。
こんなに心を乱しておきながら起きれば覚えてなどいないと言うのだろう。すやすやと聞こえる寝息が小憎らしい。鼻でもつまんでやろうか。

「ばか」

精一杯の照れ隠しを投げかけてから、薄く開かれた唇に唇を重ねる。ほんの一瞬だけ。
すぐに離れて二杯目のコーヒーを入れるために立ち上がる。するとどこからか引っ張られる感覚。
何かと思えばロアルドの右手が私の服の袖を掴んでいる。いつの間にか上半身を起こしたロアルドは目が合うと、恥ずかしそうに青い目を伏せた。

「もう一回」

それだけ言って、今度は向こうから口付ける。

「ん、苦い」
「コーヒー、飲んだし」
「砂糖なかったかな」
「切れてるからブラックで我慢したんでしょ」
「ああ、そうか…すまない」
「…いつから起きてた?」
「さて、いつからだったかな」
「ばか」
「イタタタタタ」

寝癖をつけたまま幸せそうに笑うロアルドの頬をつねる。本気で照れてた自分が馬鹿馬鹿しい。
買ってきた砂糖を入れて二杯目のコーヒーを飲んだ。悔しいからブラック派のあいつの分にも砂糖を三杯ぶち込んでやった。