「じゃあ、今日はここまで。次の試験は――」

昼前4限目。教師の言葉をかき消すようにどことなく音程の外れたチャイムが響く。巽完二はそれを合図にそそくさと教室を出て実習棟に向かっていた。普段昼食は一人で教室で食べることが多かったが今日は落ち着かなそうに辺りを見まわしこそこそと階段を登っている。
巽完二と言えばこの地域では名前を出すだけであたりがざわつくような不良だ。本人にとっては誠に不本意ではあるが。そんな高校一の不良が隠れるように屋上を目指さねばならぬ原因。完二は抱え込んだ鞄の中をちらりと覗き込んでため息を吐いた。教科書やら筆箱やらが無造作につめ込まれた中で一際異彩の放つ、薄紅色の生地に桜模様が散りばめられた可愛らしい風呂敷に包まれた、弁当箱。誠にこの上なく不本意ではあるが高校一の不良(不良と書いてワル)と言われる巽完二がこんなに可愛らしい弁当風呂敷を使っているとは学校中の人間だって夢にも思っていないだろう。
いや、違う。完二がどうしてもこれを隠し通したい理由はそんなことではない。それにこの弁当風呂敷は母の物だ。いつもの弁当風呂敷に醤油を垂らしてしまって今回は仕方なく(秋桜模様と手鞠模様でかなり迷った挙句に)借りた(桜模様が一番可愛いかなと思った)までである。いや、そんな言い訳をしたいわけでもない。
問題は弁当箱の中身なのだ。朝方少々母と口喧嘩をしてしまい無駄にイライラしていた完二はストレス発散に弁当を作っていたのだが(発想がすでに主婦)途中でハイになってしまい、気づいた頃にはやたらとファンシーなうさぎさんのキャラ弁が出来上がっていた(目に見立てた海苔をトッピングしているときに我に返った)のである。
高校一の不良の巽完二がうさぎさんのキャラ弁である。しかも手作り。しかもすごく可愛い。キュン死にするくらい可愛い。我ながら自信作だが、そんなものを周りの奴らに見られた日にはキュン死にの前に己が恥ずかしさで死んでしまう。
これだけの自信作だ、本当は誰かに見せびらかしてやりたいところだがそうもいかない。ひとりきりでこの弁当を完食するという任務を全うし、漢・巽完二というキャラクターを守らねば。
そこで目をつけたのが実習棟の二階にある英語教室である。授業でも使用することがなく存在すら忘れられたこの場所なら誰に見つかることもない。鍵はいつも閉まっていたが廊下側の窓の鍵が一つだけ壊れているのを完二は知っていた。
英語教室の前に着ききょろきょろと辺りを見回す。人影はない。廊下に注意を払いながらそろそろを窓を開け中に入り静かに窓を閉める。大丈夫だ、誰にも見られていない。完二は胸を撫で下ろした。後はこの弁当を胃袋に入れてしまうだけ。そう思って教室の中へ目を向けた完二は凍りついた。
誰もいないとばかり思っていた教室にはすでに先客がいた。窓側の一番後ろの席。開け放たれた窓から吹き込む少し湿っぽい風に黒い髪を靡かせる女生徒。机に突っ伏していて顔は見えない。丸まった背中が呼吸に合わせて上下する。どうやら眠っているようだ。
こんなところに誰かがいるなどとんだ誤算だった。昼休みのチャイムから数分が経過し廊下からは時折人が行き交う気配がする。駄目だ。別の場所を探す余裕はない。
こうなったらこの女が目を覚ます前にさっさと弁当を処理しよう。完二は覚悟を決めて女生徒のいる場所から二つ離れた席に腰を下ろした。鞄を開けて弁当箱と水筒を取り出し、手を合わせて心の中でいただきますと言いながら弁当の蓋を開けた。
卵焼き。きんぴらごぼう。人参のグラッセ。ミートボール。そして、鮭フレークを混ぜて薄い紅色にしたご飯は可愛いうさぎさんの形。海苔の黒い目がこちらをじっと見つめている。
これはキュン死にしてもおかしくない。完二は箸を持ったまま笑顔でうんうんと頷き弁当を眺める。すると突然弁当に影がかかった。

「可愛い」
「うおおおおおおっ!?」

突然真後ろから声。完二は大げさに声を上げて振り返った。先程まで窓際で眠っていた女生徒がいつの間にか背後に立っている。誰かが近づいてくるのに気付けないほど弁当に夢中だったのか、自分は。

「お、おま、お前!寝てたんじゃねぇのかよ!」
「こんな時間にそんな美味しそうな匂いさせられて起きないわけないでしょ。ていうか君も物好きだね、こんな場所にお弁当食べに来るなんて」
「こんなとこに誰かいると思ってなかったんだよ!」
「私だってこんなところに誰か来ると思ってなかったよ」

女生徒は完二が取り乱していても全く気にした様子もなく完二の弁当を覗き込んでいる。髪と同じの真っ黒な目がうさぎさんの目を見つめていた。
完二はというとまるで心臓を手で掴まれたような気分だった。きっと次に口を開けば彼女は弁当と自分を見比べ、「似合わない」と言うのだろう。
学校で一番の不良である自分とこんな可愛らしい弁当なんて結びつかない。気持ち悪い。そう言って蔑んだ目で自分を見るのだ。あの頃と同じように。
そうだこの弁当は彼女に作ってもらったもので、自分も迷惑しているのだといえばいい。こんなもの望んでいないのにあいつはお節介だから。食べてやらないと可哀想だから、と。それなら少し傷つくだけで済む。

「これは…その」
「君が作ったの?」

言い訳をしようと口を開けばすかさず女生徒が確信を突いてくる。黒い目が今度は完二の目をじっと見つめてきた。
何故だか、彼女の目は自分のよく知っている女の目とは違う気がした。自分を変人だと言って忌み嫌うあの目ではなく、ただ純粋な興味だけが自分に向けられているような、そんな気が。
この人なら大丈夫かもしれない。理由などない。そんな気がしただけ。

「……そうだよ」

ぶっきらぼうに目を逸らしながら、小声でそう言ってみる。言ってしまった後で凄まじい後悔が完二を襲った。
女相手に何を言っているんだ俺は。どうせいつものように「男のくせに」と言われるに決まっている。
何を、期待しているんだ。
目線を落とし自分の靴ばかり見つめていた。もうどうでもいいから、さっさと言うだけ言って自分の前からいなくなってほしかった。

「すごいね」

けれども返ってきた言葉は、自分の想像したものとは違って。
恐る恐る顔を上げてもう一度彼女と目線を合わせる。黒い目は先程と変わらず興味深そうにこちらを見ていた。


「可愛いし美味しそう。私なんか人並みに料理するのが精一杯なのに。すごいよ」
「…似合わないとか言わねぇのか」
「言ってほしいなら言うけど」
「んなわけ、ねぇだろ」
「ていうか、君のことこれっぽっちも知らない私が似合わないなんていうのはおかしいでしょ」
「お…おう……そうか」

女生徒は笑って小さく首を傾げてみせた。
彼女の言う通りだ。今までは自分のことを全く知りもしない女たちがただ自分を一目見て「気持ち悪い」「男らしくない」「似合わない」と口々に言い合った。影からわざと聞こえるように。わざと傷つけるために。そんな女が嫌いだった。恐かった。
もう一人の自分があんな風になってしまったのはそのせいなのだろう。情けない話だがあれを受け入れた今も、女は苦手だというのは克服できてはいない。

「お腹空いてきた」
「…ちょっとやるよ」
「マジで」
「そのかわり今日見たことは誰にも言うなよ」
「了解。うわ、玉子焼き美味しいなにこれ」
「あ!てめ、手で食うな手で!!」

目の前にいる彼女は、少なくとも自分が知っている女とは違う。彼女の言葉が、女だからといって全てが自分が苦手だと感じる人ばかりではないのかもしれないと思わせる。
前の席に座り完二の弁当をつついて笑う女。なんだか新鮮だった。昔は蔑むような目を向けてきた奴らも、高校に入ってからは怯えた目で自分を見ていたから。
どうやって味付けをしてるのか。どの位時間がかかったのか。他にも作れるのか。次々と投げかけられる質問に完二は素直に答える。その度に彼女は純粋に感心してくれた。
ああ、なんだこれは。なんだかむず痒い。完二は緩みそうになる頬を隠そうとご飯をかきこんだ。さようなら、うさぎさん。

「ご馳走様」
「結局ほとんど食いやがった…」

弁当は二人で食べるには少なくてなんだか物足りない。完二がお茶を飲んで空腹感を誤魔化していると彼女が立ち上がった。
窓際の席においてあった鞄の中から財布を取り出し、廊下側の窓の方へ歩いて行く。

「どこ行くんだよ」
「購買。お腹いっぱいにはならなかったでしょ。お礼に奢ってあげよう」
「マジで」
「何がいいか言ってみなさい」
「じゃあ焼きそばパン」
「任せろ」

鍵が壊れている窓の前に立ちしばらく様子を伺っていた彼女は、人の気配が途絶えた瞬間に機敏な動きで窓を開け教室を抜けだした。何だ今のは。忍者か。
ふと彼女がさっき漁っていた鞄へ目をやると現国の教科書が飛び出ていた。なんとなく気になって引っ張り出してみる。表紙には「現国U」の文字。

「と…年上…」

普通にタメ口で話していた相手はどうやら一つ上の先輩だったらしい。失礼なことをしたなと少し罪悪感を感じながら教科書を裏返す。
2-3、。背表紙の名前欄にはほっそりとした丁寧な字で名前が書いてあった。2-3というとリーダーや花村達とは別のクラスのようだ。

先輩…か」
「呼んだ?」
「うわあっ!」
「人がいない間に勝手に鞄の中身出すとは感心しないね」
「あ、その…すんませんっス…」
「なんだ、君後輩?」
「1年なんで…」
「あーじゃあ2こ下だ」
「え?2年でしょ?」
「留年してるから」
「留年!?」
「そーそー、出席日数足りなくてさー。君はこんな先輩になったらいかんよ。えっと…」
「あ、完二っス。巽完二」
「留年はいかんよ完二君」
「いやアンタに言われても」
「細かいことはいいじゃない。ほら焼きそばパン。先輩のおごりだよ」
「あざーっス」

投げ渡された焼きそばパンをもそもそと頬張り、自分も出席日数を落とすわけにはいかんなと思い直す。というかまさかこの学校に留年者がいたとは。
危ない危ないと思いながら彼女を見やると、彼女もミニクロワッサンを食べながら完二を見ていた。少し首を傾げまじまじと完二を眺めている。
自分の顔に何か付いているのだろうかと首を傾げ返す完二を黙って見つめていた彼女は、クロワッサンを2つ食べたところでようやく声を漏らす。

「ああー、思い出した。完二君ってあのテレビに出てたヤンキーか」
「今更っスか」
「どっかで見たかなーって思ってたんだよ。暴走族なの?」
「違いますよ。俺は族潰した側っス」
「そういえば最近夜静かになったね。ありがとう」
「いやその…別に礼言われることじゃねぇっつうか……ていうか先輩恐くねぇんスか」
「何が」
「え…いや何がって、俺が…」
「なんで」
「なんで、って…不良だし…族潰すような奴っスよ」
「私のことボコるの?」
「なんでそうなるんスか」
「ボコられたら恐いなって」
「理由もなくんなことするわけないっしょ」
「だよね。だから恐くない」
「はあ…そうっスか…」
「完二君は私のこと恐い?」
「なんで」
「うーん、留年生だし?」
「なんスかそれ。恐いわけねぇじゃないですか。自分が留年するのは恐ぇけど」
「恐くない?」
「…恐くねぇっス」
「ほら、おんなじじゃん」

当然、という顔で彼女はまたクロワッサンを食べ始める。一体何個買ったのだろうか。弁当を半分食べた後とはいえ食べ過ぎではないのか。
そんなことよりも、自分がこの辺りで有名な不良だと知っても全く恐くないとは本当に変わった女だと完二は思った。
それに自分がこんなにも関わることに臆病にならない相手も珍しかった。テレビの中で出会った先輩達には自分の隠していた部分を知られているから今更恐がる必要もないだろうと思えたが、彼女は違う。全くの初対面にも関わらず何も先入観を持たずに、不良の巽完二ではなく、男である巽完二ではなく、ただ目の前にいる一人の人間そのものを見て話してくれているように思えた。
だから完二は、彼女のことを「恐くない」と言えたのだ。

「…先輩」
「なんだい完二君」
「これからもここに飯食いに来ていっスか」
「いいけど諸岡には見つからないようにね。あいつ五月蝿いし私目付けられてるから」
「あざっス!」
「んじゃ、そろそろ5限だし行こうか。出席日数というノルマの為に」
「うぃーっス」

鞄を掴んで立ち上がる。並んでみると彼女は自分と比べて随分と小さかった。つむじを見下ろしながら小さく笑う。
高校に入って初めて、明日も学校に行かなければならないということが煩わしくないと思えた。
明日の弁当の献立を考えながら、完二は手を振って教室棟に戻って行く彼女の後ろ姿を見つめていた。