「のう、官兵衛」
日の当たる縁側で、パチリと乾いた音。
続いて明るい声が尋ねる。
「・・・・何でしょうか」
しばらく間が空いてから無機質な声が答える。
それからまた、パチリという音が響いた。
「手加減とか、そういうのはナシなんか?」
ううんと唸った声の主は官兵衛が軍師として仕える秀吉であった。
視線の先には碁盤。置かれた白と黒は秀吉の負けをこれでもかと示している。
「秀吉様は勝ちを譲られることがお望みで?」
「違うわい!でも、もうちょっとこう・・・上司を気遣うとか」
「命であれば幾らでも負けますが」
「そんなんで負けてもらっても嬉しゅうないわ!」
「官兵衛殿〜退屈だよ〜・・・・って、あれ、秀吉様」
可愛げのない軍師に呻き声を上げていたところへ、もう一人の軍師がやってきた。
秀吉が顔を上げる。目が合えば半兵衛はにこっと笑った。
こうなったら。
がっと半兵衛の両手を掴む。さりげなく碁盤をひっくり返すのも忘れない。
官兵衛は特に文句を言うでもなく散らばった碁石を拾った。
「半兵衛!おみゃあさんが味方してくれればええんじゃ!」
「え、な、何ですかイキナリ」
「碁で勝てば官兵衛がワシの遊びに付き合ってくれるっちゅーんじゃが・・・・」
半兵衛に縋ってしょげる秀吉。彼はあまり碁が強い方ではない。
一方官兵衛は軍師という頭を使う役職からか碁は得意であった。興味本位で勝負を挑んでくる者を全力で潰してトラウマを植えつけている。
そんな自分の得意分野を条件にするということは、秀吉の言う遊びにどうあっても付き合いたくないもののようで。
どうせ酒の誘いだろう。秀吉の酒は楽しいのだが酔うと色々面倒くさい。ねねの目の前で茶々を呼んだりして血を見たりする。この前も飛んできたクナイが官兵衛の真横を通り過ぎて豪勢な襖をぶち破っていた。
官兵衛の青褪めた顔との慌てっぷりを思い出す。あれには随分と笑ったものだ。
「そういうことなら、どうせ暇ですし、いいですよ」
「おお、さっすが半兵衛!」
思い出し笑いを噛み殺して、半兵衛が秀吉の隣に座る。
またあの惨劇に巻き込まれるのも楽しいかもしれない。もちろん自分は傍観者で。
官兵衛へのイヤガラセもネタが思いつかなかったところなので丁度良い。
「官兵衛殿、いいでしょ?これくらいのハンデは必要だよ」
「・・・・・・」
「ええじゃろ、官兵衛」
「・・・・・・・・・・構いません」
文句を言おうかと口を開きかけた官兵衛であったが、秀吉の言葉には弱い。
官兵衛は渋々といったように頷き、拾い終わった碁石を渡した。
「よーし、俺頑張っちゃいますよ、秀吉様!」
「期待しとるで、半兵衛!」
明るい笑顔とどこか黒い笑顔。碁盤を挟んで官兵衛は長い溜め息を吐いた。
官兵衛に碁を教えたのは他でもない、今孔明と呼ばれる軍師・半兵衛なのである。
日も傾いてきた頃。
鍛練が一段落つき、は汗を流してから官兵衛の元へ向かう。
特に用はないのだが手伝える仕事があるなら手伝っておきたかった。そうでもしないと官兵衛は朝まで仕事を続ける。
綺麗に磨かれた廊下を歩き、似つかわしくない質素な襖の前に立つ。
普段なら筆の動く音くらいしかしない主の部屋。けれども今日は随分と静まり返っている気がする。
「失礼しま」
「殿!どこ行ってたのさ!」
「うぐっ」
襖を開けると同時に飛びついてきた半兵衛。驚いて思わず色気のない声が出た。
「ど、どこって鍛練ですよ。腕が鈍るのは傭兵としてまずいし・・・それより官兵衛さんはどうしたんですか?」
部屋の中を見渡してもみても、いつも不機嫌そうな主の姿はない。
ひっつきっぱなしだった半兵衛に視線を落としてみれば、彼は気まずそうに目を逸らした。
怪しい。はべりべりと彼を引き離し、頭を掴んで無理矢理に目を合わせる。
「半兵衛さん、なんか知ってるんですね」
「うん、あの・・・・・・その・・・なんていうか・・・・」
「また官兵衛さんにイヤガラセしたんですか?」
「いや、殿、少し落ち着いて・・・・」
鬼気迫る形相に半兵衛は若干涙目である。は官兵衛のこととなるといつもこれだ。
確かに自分のことも大事にしてくれているとは思うが、主である官兵衛を護るという決意は凄まじく強い。
どうしてそんなに官兵衛に尽くすのか。いつかに聞いたことがある。
傭兵として生き、傭兵として死のうとしていた。敵である彼女に、官兵衛は手を差し伸べた。
使えると思われただけかもしれない。ただの気まぐれだったのかもしれない。
それでもあの頃から、私の命はあの人のものですから。笑って答えた彼女が眩しかった。
ずるいよ、官兵衛殿は。半兵衛は心の中で呟く。
「はっきり答えてください、今孔明様」
「わ、わかった、わかったから!とりあえず離してー!」
そんな彼の甘酸っぱい気持ちなど露知らず。はがくがくと半兵衛の肩を揺する。
半兵衛は堪らず叫び声を上げて制するが、こちらを見るじめじめとした視線が痛い。
知らぬ間に官兵衛に似てきたの雰囲気に怯えながらも、半兵衛は事の成り行きを話した。
「・・・・・・・で、その勝負、どっちが勝ったんですか」
「もちろん俺だよ。官兵衛殿もまだまだ甘いね」
「なら、官兵衛さんは秀吉様のお酒に付き合わされてるってことですか?」
官兵衛はそれほど酒に弱いわけではない。ねねもいないとのことだから命の危険もない。
少しくらいの酒なら気分転換にもなるし、最悪兵に任せて逃げ出すことも出来るだろう。
は心配して損したと溜め息を吐くが、半兵衛はまだ気まずそうな顔をして続ける。
「・・・その・・・・・俺はお酒だと思ってたんだけど、なんか違ったらしくて」
「違った?」
「秀吉様の遊びっていうのは・・・・・女遊びのことみたいで」
「・・・・・・・それは、つまり」
「俺は遠慮したんだけど・・・・・遊郭に行くってさ・・・・お忍びで」
半兵衛が言い終わる前に、は馬小屋に向かって駆け出していた。
明るい笑い声が室内に響く。
官兵衛はいつものぴんとした姿勢を崩さず眉間にこれでもかと皺を寄せて酒を煽っていた。
空になったばかりの漆塗りの上品な杯に、すぐさま透明の液体が注がれる。
酌をするのは派手な着物を着込んだ遊女。抜かれた襟から覗くうなじが必要以上に色っぽい。
確か、太夫だった気がする。秀吉が高い女から順に呼んでいたのを思い出して官兵衛は溜め息を吐く。
「何かお悩み事ですか?」
「・・・・・今この状況に悩んでいる」
「ふふふ、つれないお人・・・・」
両脇を二人の遊女に固められ官兵衛は身動きが取れなくなっていた。
秀吉の方を見やる。美女に囲まれ鼻の下がだらしなく伸びている。
今この場にねねがいればクナイどころではすまない。手裏剣が雨のように降り注ぐだろう。
「か〜んべ〜!楽しんどるかぁ〜?」
目尻を下げて顔を真っ赤にした秀吉がこちらにやってくる。両手を遊女に回してご機嫌だ。
彼女たちが嫌がらないのを良いことに肩や背を撫で回している。セクハラオヤジ以外の何でもない。
「私のことはお気になさらず」
「気にするに決まっとるじゃろ!せっかくなんじゃから楽しまにゃあ!」
秀吉が声をかければ、遊女が妖艶な笑みを零して官兵衛に近寄る。
こういうところは苦手だ。騒がしいし、香の匂いが鼻につくし、女は猫撫で声で擦り寄ってくる。
女に媚びられるのが好きならば楽しいのかもしれない。けれども官兵衛にとっては不快でしかなかった。
確かに彼女たちは美しい。しかし中身はどこにもなく、こちらの中身を見ようともしていない。
そうして不用意に近付いて男を取り込もうとする。取り込みたいなど露とも思っていないくせに。
まあ、遊女たちにとってはそれが仕事なのだから客として来た自分が文句を言っても仕方がない。仮に自分が相手をする側だとすれば彼女たちと同じようにいちいち客の中身など見たりはしないだろう。
隣の女が官兵衛の膝に手を置いた。ちろりと目線をやれば誘うように笑う。官兵衛はげんなりとした。
嗚呼、帰りたい。しかし逃げ出そうにもこう囲まれてはどうしようもなかった。
風呂に入って染み込んだ咽返るような匂いを落としたい。半兵衛に文句も言ってやりたい。
そういえば、はどうしているのだろう。今日は朝から火縄の調整をして鍛練場へ行くといっていた。
今頃残った半兵衛に自分が遊郭に行ったと聞かされているだろう。
心配しているだろうか。それとも失望しただろうか。
いつも従順なの姿が脳裏に浮かぶ。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「おっ、ええ飲みっぷりじゃのー!」
「あらあら、お強いんですね」
無性に飲みたくなって、ぐいっと勢い良く杯を空けた。秀吉が楽しそうに笑ってすぐに新しい酒を勧める。
逃げ出すことが出来ないのならいっそのこと、正気を失ってしまおうか。
そうすればこの忌々しい空間から精神的には逃れることが出来る。後で後悔することになろうが、知ったことか。
半ばヤケになり注がれるままに酒を煽っていたとき。
「官兵衛さん!」
すぱんと襖が開かれる。
鬼のような形相で肩を上下させ息を切らせて立っているのは他でもない、であった。
は美女に囲まれている官兵衛を見てうろたえるが、首をぶんぶんと横に振る。
「おお、〜!どうじゃ、一緒に!」
「秀吉様!貴方は、な、なんてとこに官兵衛さんを・・・・!」
「たまにはハメ外してもええじゃろ〜?」
「やるならお一人でやってください!」
嬉しそうに迎える秀吉には顔を真っ赤にして喚いた。そうしてずかずかと部屋に入り、官兵衛の元へ跪く。
の迫力に遊女が恐いと官兵衛に縋りついた。の眉間の皺は一層深まる。
官兵衛は突然やってきたをただぼんやりと見つめていた。目が合えば途端にの眉はハの字になる。
「・・・・」
「官兵衛さん、帰りましょう」
そう言って差し伸べられた、女だというのに傷だらけの手。
白くて繊細な遊女たちのそれと比べれば、美しいとはとても言えない。
けれどもその手が、官兵衛には地獄に垂れる蜘蛛の糸に見えた。
纏わりつく女を振り払って立ち上がる。酒で少しふらつきながらもその手を取ると、は安心したように笑った。
部屋を後にしようとする二人。しかしそれを黙って見過ごす秀吉ではない。
飛び上がって二人の前に立ち塞がる。
「ちょ、ちょ、ちょっと待て、帰るじゃと!?せっかくこうして楽し」
びゅんと秀吉の前を何かが横切った。
恐る恐る目線を下ろしてみれば、畳にクナイが刺さっている。
酔いが一気に覚めていく。背中を冷たいものが伝うのがわかった。
「お前様・・・・・・こんなところでなにしてるの?」
天井から声。一枚だけ不自然に外れた天井板からおびただしい殺気が漏れている。
闇の中でぎらりと光る二つの目が秀吉を見つめていた。
「話はから聞いたよ」
「や、ねね、これは、その」
「官兵衛まで巻き込むなんて・・・・お前様の、馬鹿ァアァアァアアアッ!!!」
この現状で言い訳など通るはずもなく。
金印と霊鏡を贅沢に使ったねねの無双奥義・皆伝に巻き込まれないように、と官兵衛はそそくさと部屋を抜け出した。
外に繋いでおいた馬に官兵衛を乗せ、もその前へ乗る。危ないですからと言う前に官兵衛はの腰に腕を回した。
脇腹を蹴れば馬が駆け出す。蹄の音だけが夜の闇の中に響いていた。
「・・・・・・・・・官兵衛さん」
「なんだ」
ぼそりとが呼ぶ。返事をした官兵衛の声は酒のせいか随分と掠れている。
「・・・邪魔しちゃいましたか?」
またしてもぼそりとが言った。先程の口調とは打って変わって、すっかりしょげている。
勢いに任せて迎えに来たはいいものの。
官兵衛が綺麗な女に囲まれているのを見たとき、もしかしたら自分はとんでもない邪魔者なのではと思った。
自分は傭兵であるし、見目麗しくもなければ女っ気も持ち合わせてなくて。
ああして綺麗に笑って酌をして満足させることなど出来そうもなくて。
秀吉と同じように、官兵衛は望んであの場に留まっていたのだとしたら。
そう思うと、は酷く悲しい気持ちになった。
「・・・・・・・官兵衛さんが望むなら、今からでも引き返」
「黙れ」
官兵衛がの言葉を遮り、回す腕に力を込めた。
のうなじのあたりに官兵衛が顔を埋める。落としきれていない火薬の匂いに混じって、の匂いがした。
戦場に吹く風のような乾いた匂い。あの部屋に充満していた甘ったるい匂いよりも、こちらの方が随分と落ち着く。
「あのように媚びる女よりも、おまえと飲む酒の方が幾分かマシだ」
「・・・・そうですか」
「帰ってから飲みなおす。付き合え」
「私で良ければ、いくらでも」
「・・・・・・・・・・」
「はい」
「・・・助かった」
酔いのせいか随分と素直な感謝の言葉。
それを聞いたは手綱を握りながら、いつもより温かな官兵衛の体温を感じていた。