きんと冷え込む冬の朝。
は両手を擦りながら廊下を歩く。床板が氷のように冷たい。
「官兵衛さん、おはようございます」
すらりと襖を開けて、部屋の主に頭を下げる。
まだ薄暗い部屋の中で背をぴんと伸ばし文机に向かう官兵衛。
こちらを見向きもせずに詰まれた仕事と睨めっこしている。
文机の横に置かれた火皿に目をやれば、入っていたはずの油はほとんど残っていない。
蝋燭を使わないところが官兵衛らしいが、この様子だとまた徹夜でもしたのだろう。
だからいつまで経っても隈がなくならないのだと思いながら襖を閉め、部屋へ入る。
ここまではいつもとなんら変わりはない。
けれども一つだけ、いつもと違うところがあることには気付く。
「か。早いな」
いつもは結っているはずの黒と白が肩の下まで垂れていた。
官兵衛がちらりとこちらを振り返る。下ろした前髪のせいでいつもにも増して不健康そうに見えた。
「どうしたんですか、それ」
「何が」
「髪ですよ、髪」
「髪がどうした」
昼寝に誘っても結局は起きているし、人前でなくてもきっちりとした身なりを崩さない。
そんな彼が髪を下ろした姿など、半兵衛が背筋を伸ばして文机に向かう姿よりも珍しい。
は驚いて目をぱちくりとさせるが、官兵衛は特に気にした様子もない。
「・・・・私は、てっきり」
「何だ」
「官兵衛さんは、そういう姿を見られたくない人なのかと思ってましたよ」
取り入られないように。弱みを見せぬように。
官兵衛はいついかなるときも隙を見せることはなかった。
他人との間に線を引き、そこから先へ誰かが入ってくることを拒む。
傍らで官兵衛を見てきたは、それが彼の性分だと思っていたのだ。
「別に構わんだろう」
「構わんのですか」
「・・・・・私を尋ねてくる物好きは、おまえか半兵衛くらいのものだ」
いつもの無表情を崩さず、官兵衛は言う。
つまりは、自分と半兵衛には少なからず気を許しているということで。
気付かないうちに、ここまで彼との距離が縮まっていたとは。胸の内が温かくなる。
今すぐこのことを半兵衛に話してやりたい。彼も一緒になって喜んでくれるはずだ。
「何を笑っている」
「いえ、別に」
官兵衛は筆を置きこちらに向き直っていた。
思わず零れた笑みを、官兵衛は眉間に皺を寄せ奇怪なもののように見る。
前髪が目にかかり邪魔そうだ。はふと思いつき、官兵衛の傍へ寄る。
「官兵衛さん、髪、結ってあげましょうか?」
「・・・良からぬ事を考えているのならば断る」
「変な髪形になんてしませんよ。したら口利いてくれなくなりそうだし」
「・・・・・・・・」
官兵衛は黙って櫛と結い紐を渡した。そしてに背を向けて座りなおす。了承してくれたようだ。
は膝立ちになって官兵衛の髪を梳く。意外にも柔らかい髪の感触がくすぐったい。
白すぎるうなじは綺麗というより不健康だが、そういえば彼のうなじを見るのも初めてだった。
官兵衛は先程からじっと、文句の一つも言わずただ自分に身を任せている。
幸せだ。
紐を取り出しくるくると髪を束ねながら、はぼんやりと思う。
ただ遠くで彼を見ていたあの頃は、こんな日が来るなんて思ってもいなかった。
いつの間に自分は、こんなに彼の近くに来たのだろう。
ぎゅう、と頬をつねってみれば当たり前だが痛い。夢でなくて良かった。
「終わりましたよ」
「随分と時間がかかったようだが?」
「いやあ、あんまり慣れてないもので」
そう言って背を叩けば、官兵衛はいつもの位置に結われていることを手で確認する。
お気に召したらしく小さく頷いて、官兵衛がこちらを向いた。手には結い紐を持っている。
そしてから櫛を取り上げ、じいっと見つめる。
何か言いたげなその視線に首を傾げてみると、官兵衛が立ち上がっての後ろへ回った。
「な、なんですか?」
「結ってやろう」
「ええ!わ、私はいいですよ」
ぶんぶんと手を振って遠慮してみても、官兵衛は気にも留めない。
動くなと頭を掴まれ、は大人しくなる。
ここで無理に暴れたところで、官兵衛の機嫌を損ねるだけだ。
「どういう風の吹き回しですか」
「別に、やられっぱなしが癪だっただけだが」
官兵衛が紐を口に銜えたまま、の髪を梳く。
普段は下ろしたままのそこまで長くない髪。官兵衛の大きな手がそれを掬い上げる。
気恥ずかしいような、懐かしいような、不思議な感覚。
何故だか涙が零れそうになって、は下を向く。
そんなの様子に気がついたのか、官兵衛が頭を撫でた。
いつか誰かが、「官兵衛には人の血が通っていない」と言っているのを聞いことがある。
そんなことあるはずがない。彼の掌は確かに冷たいけれど、心はこんなにも温かい。
彼らはきっと、官兵衛のことを軍師としてしか知らないのだ。
引かれた線の向こうから、遠くに見える彼を眺めて話しているだけなのだ。
「官兵衛殿〜!おっはよーう!」
からりと勢い良く襖が開いた。冷えた外気が入り込みは思わず身震いする。
官兵衛はの頭に手を置いたまま、来客者へと目をやった。
言うまでも無い。来客者はもう一人の物好き、半兵衛である。
「卿が朝に来るとは珍しいな」
「気持ちよく昼寝するための早起きだよ。それより、何してんの?」
「官兵衛さんが髪を結ってくれるって言い出して」
「結ってもらったのでな。お返し、というやつだ」
「ええー!何それ、じゃあ俺も結ってよー」
「・・・何を言い出すかと思えば」
「二人だけおそろいとかずるいじゃん!」
ぷうと頬を膨らませる半兵衛。いつも明るい彼のおかげで零れそうになった涙が引っ込む。
彼の行動力がいつもを後押しした。自分との間に引かれた線を見つめ、動けずにいたの手を引いた。
少しずつ、けれど確実に官兵衛に近付いていって、許されている今の距離。
こうして三人でいられるのも、彼のおかげだ。
は笑って官兵衛を見る。官兵衛もほんの少しだけ口角を上げた。
「じゃあ私が結ってあげますよ」
「ホント!?」
「ええ。官兵衛さん、まだ紐ありますか?」
「あったとは思うが」
「これだね!」
半兵衛が文机の上の結い紐を取ってきてに渡し、背を向けて座り込む。
帽子を膝の上に載せて鼻歌を歌い始めた半兵衛。
こんな彼を見て誰が官兵衛と並び賞される軍師だと思うだろうか。
「こうしてるとなんか家族みたい」
「それ、素敵ですね」
「でしょ!俺と殿が夫婦だとしたら、官兵衛殿は子どもだね」
「どうしてそうなる」
「俺の方が年上だから」
「・・・子ども役は卿の方が適任だ」
「あー!外見のこと言うなんてサイテー!」
「まあ、どっちかっていうと三人まとめて兄弟みたいですけどね」
出来上がった結び目は官兵衛と同じ位置。小さな尻尾のような髪が揺れる。
官兵衛が薄く笑ったところを見ると、きっと自分もそういう風に結われているだろう。
このまま見せびらかせに行くのも悪くない。おねね様あたりが喜んでくれるかも。
幸せだ。本日二度目。
は湧き上がる温かな気持ちを、静かに噛み締めていた。