「官兵衛殿」
「なんだ」
「官兵衛殿は殿のこと好き?」
半兵衛が聞いた。
次に起こるやもしれぬ戦の話や天下取りの話をしていたかと思えば。
質が落ちた質問に官兵衛は眉を顰める。
「何を言うかと思えば」
適当に流そうと思って先程の続きへ目を落とすが、突然本が視界から消える。
見上げれば真上に半兵衛の顔があった。随分と真剣な顔をしている。
手には先程まで読んでいた本。取り上げられたらしい。仕方がないので向かい合うように座り直した。
「ねえ、どうなの?」
天下を泰平に導くためにはそれ相応の武が必要である。
乱を治めるために武を振るうなど皮肉でしかないが、泰平への近道なのでは致し方ない。
自分は武という面においては他の者より劣っている。それは重々承知だ。
あいつを見たときに駒として使えると思った。だから傍に置くことにした。
主と傭兵の関係にはそれ以下もそれ以上も不必要だ。
「に対して特別な感情など持っておらぬ」
官兵衛はいつもの声音でそう言った。こちらをじっと見据えている。
日も暮れはじめた部屋の中で見る官兵衛はいつにも増して辛気臭い。
どうせ「は天下を泰平に導くための道具だ」とか言いたいんだ。この顔は。
そんな顔してるから、俺みたいに近くで見ない人たちは騙されちゃうんだ。
人として求められないのならば、せめて武で。
そう決めた彼女はただ盲目的に主に従っていた。それでいいと言い聞かせていた。
初めて戦場で出会った彼女は随分と暗い目をしていた。
闇に長く触れすぎて光を見ることを忘れてしまったようだった。
敵意を向けてこちらを睨みつける彼女は酷く苦しそうで。泣いているようで。
主を護る。
彼女は言った。
けれどその言葉が俺には、主を救ってくれと懇願するように聞こえたから。
彼女の言う主に目をやった。主は彼女よりももっと深く暗い目をしていた。
感情の起伏が見られない冷たい眼差しが彼女の背中を見つめていた。
主を護る。
彼女が言い聞かせるように言った。
その瞬間、何も映していなかった主の目に人が宿るのを、俺は確かに感じたから。
二人とも大事なものを無くしたことがある人だった。
だからもう失って悲しいものは持ちたくなかった。
俺はそんな二人の手を取った。二人の間を自分で繋いだ。
だってあまりにも、悲しすぎるから。
俺のお節介は功を奏して、彼女にとっての「主」は「官兵衛さん」になった。
それからもう少し時間がかかって、官兵衛殿にとっての「使える駒」は「」になった。
間違ったことをしたとは思わない。
殿は出会った頃から比べて柔らかい表情をするようになった。官兵衛殿だってそうだ。
きっと俺は、出会ったときからこの二人に笑ってほしかったんだ。
この二人が笑っているのを見て、俺も笑いたかったんだ。
「好きじゃないの?」
本当はこれ以上近付くのが恐いだけのくせに。
これ以上大事になるのが恐いだけのくせに。
隠してるつもりでもわかる。天才の自称は伊達じゃあない。
「・・・・わかっているのならば聞くな」
縋りついていたとばかりに思っていたあの手。
けれどもそれは、自分に差し伸べられていたものだった。
手を取ればその温もりを離すことなどできないとわかっていた。
瞬きをする間に人が死んでいくこの乱世。残すのも残されるのももう御免だ。
だから遠ざけていたのに。
お節介な男が知らぬ顔をして私たちの手を取った。
悲観的なのは趣味じゃないと言いながら強く握られた手。
それに連れられて遠慮がちに握られた傷だらけの手。
両の手の温もりに、いつの間にか救われていた。
「俺は殿のことも官兵衛殿のことも好きだよ」
けれども私は臆病で。
その手などいつでも離せるものだと思い込んでいなければ、失うことが恐ろしい。
自分が死ぬことで悲しむ誰かがいることが、幸せすぎて、恐ろしい。
「だから、死んでもこの手を離さない」
大切だ、と。
言葉にするのが恐ろしい。
「卿は良く恥ずかしげもなくそんなことが言えるな」
「官兵衛殿が言わないから代わりに俺が言うの」
こちらへ近付いてくる足音が聞こえる。
きっとだろう。夕餉の知らせにでも来たか。
官兵衛は半兵衛を見た。目が合えばにこりと笑ってみせる。
全てわかっていると言いたげな表情。だが不快ではない。
臆病な自分が言葉にすることができずとも、目の前の男は理解してくれている。
それはもう片方の手を取るあいつもきっと同じなのだろう。
「官兵衛さん、半兵衛さん、ご飯ですよー」
間抜けな声と共に襖が開いた。
の笑顔が夕焼けの赤に照らされて一段と柔らかに見えた。
「殿」
「どうしました?」
「ほら、官兵衛殿もー」
半兵衛が駆け寄っての手を握る。そうして空いた方の手を差し出した。
官兵衛も立ち上がってその手を取りを見る。なんとなく察したはすぐに二人の手を取った。
三人で小さな円になって互いの顔を見れば、口に出さずとも思っていることがわかる。
死んでもこの手を離さない。
この手の温もりを、忘れない。